ガッリーポリ旧市街はみどころがギッシリ!

ガッリーポリの旧市街に一歩足を踏み入れると、石畳の敷かれた風情ある街路はいずれも道幅が狭く、また複雑に入り組んでいるため、あたかも迷宮に迷いこんだような錯覚におちいるかもしれません。
ガッリーポリ旧市街の地図を見てみると、真っすぐに伸びる道は1本だけで、ほとんどの街路が曲がりくねって短く途切れ、細かく枝分かれしていることに気がつくでしょう。とりわけ南北をまっすぐに貫く通りが1つも無く、市民生活には不便なようにも思われますが、一体どうしたことでしょう?

実はこれ、街路を曲がりくねらせることによって、海から吹きつけてくる潮風をときに遮断し、ときに袋小路に閉じこめ、ときにその進路を逸らすなどして、うまく風の影響を和らげるよう意図的にこのような形に街路が設計されているというのです!

3千年ちかく前に古代ギリシャの開拓民たちが初めてこの街を建設したときからの都市設計コンセプトだそうで、なかでも夏の熱い南風=シロッコ(scirocco)と冬の冷たい北風=トラモンターナ(tramontana)はガッリーポリだけでなくプーリア州南部の人々の生活にとって今でもとても手強い存在であり、それら風の侵入を防ぐためにあえて南北をつなぐ街路を通さなかったというのですから、風とともに暮らした先人の知恵にはただただ脱帽ですね。

それではガッリーポリの旧市街のみどころ

① 貴族や豪商の歴史的邸宅群(i palazzi del centro storico)

gallipoli palazzo

何世紀も姿を変えることなく住民たちの手で守られてきた歴史あるガッリーポリの街並み。そのあちらこちらには貴族や豪商たちの邸宅が立ち並び、旧市街全体を彩っています。16世紀以降ルネッサンスと続くバロック建築の時代、さらに外敵侵略の心配が少なくなった17世紀以降はロココ様式そして新古典主義なども加わり、ガッリーポリに居を構えたナポリ王国の貴族や豪商たちは、それぞれに意匠をこらした流行の様式で、狭い旧市街につぎつぎと豪華なお屋敷を建てたのでした。
ガッリーポリの狭く入り組んだ街路に面したこれらの建物が光と影を織りなして作り出す空間は、目も心も十二分に楽しませてくれることでしょう。

タフーリ邸(palazzo Tafuri)の見事な外観は、ガッリーポリの貴族たちがかつて過ごした優雅な生活ぶりを想像させてくれます。典型的なバロック様式のアーチで飾られた正門とその両脇にある楕円窓、さらに威風堂々としたスペイン・アラゴン様式の飾り窓など、すべての要素が見事に調和したファサードは必見です。陽の光と影によりつくりだされる表情が時間とともに変わっていくその佇まいを、ぜひ味わっていただきたいです。
2階の窓から優雅な曲線を描いて突き出した鉄製の柵も何気ないように見えますが、興味深いエピソードがあります。このお屋敷が建てられた18世紀当時、貴族の女性の間で流行していたファッションといえば、かのマリー・アントワネットもコルセットとともに愛用していたロココ調の「パニエ」と呼ばれる大きく鳥かご状に広がったスカート。そんなお召し物のご夫人方でも窓から身をのり出せるようにという工夫がなされています。

1760年に建てられた旧ロミト邸(palazzo Romito)= 現セナペ・デ・パーチェ邸(palazzo Senape-De Pace)も、見逃すことのできないガッリーポリのバロック建築です。威厳ある切り石積みの正面アーチの両脇には、コリント式柱頭が格式高い門柱が立っています。さらに2階のバルコニーに開く3つの窓枠を飾る豪華な彫刻は、ガッリーポリの街でも比類ないほど最高水準の建築芸術といえるでしょう。このファサードを下から見上げれば、全体に遠近法の妙が巧みに活かされていることがよく分かるでしょう。
さらに中庭の手すり付き回廊、また館内に収蔵されている彫刻や絵画なども保存状態がよく一見の価値があります。
その優雅な佇まいは、かつて貴族が暮らしたガッリーポリ栄光の時代へと大いに想像をかきたててくれることでしょう。こちらのお屋敷はなんと現在、B&Bとして宿泊も可能となっているそうです。

この他にも、パスカ・ライモンド邸(palazzo Pasca-Rajmondo)、ピッツァーロ邸(palazzo Pizzarro)、フォンターナ邸(palazzo Fontana)、ムニットラ邸(palazzo Munittola)、ヴェンネリ邸(palazzo Venneri)、ラヴェンナ邸(palazzo Ravenna)、そして19世紀イタリア統一運動リナッシメントのヒロイン=アントニエッタ・デ・パーチェの生家でもあるドスピーナ邸(palazzo d’Ospina)など、まだまだたくさんのお屋敷がガッリーポリの旧市街には集まっています。
ざっと数えて30以上あるお屋敷の中には、現在も私邸として使われているため内部を見学することができない邸宅もありますが、現在市庁舎として使われているロッチ邸(palazzo Rocci)など外観だけでなく敷地内部や館内まで見学することができるものもあります。またなかにはセナペ・デ・パーチェ邸やザカ邸(palazzo Zaca’)さらにムズィオ邸(palazzo Muzio)のように、なんとB&Bとして宿泊できるものさえあるんですよ♪

それぞれに表情の異なる貴重な歴史的建物の外観をじっくり愛でながら写真におさめたり、写生する時間は、愛好家の方々にとってはかけがえのない旅の醍醐味ではないでしょうか?
ディスカバー・サレントでは、風光明媚な海沿いの散策や活気ある鮮魚市場とあわせて、ガッリーポリの歴史豊かなバロック建築を地元ガイドの解説とともに訪ね歩くツアーやプロの写真家とともに美しい歴史的建物を撮影しながら巡るフォトツアーなど各種ツアーを、年間を通じて企画・主催しています。ご興味のある方はぜひコチラの方もご覧ください♪

② ガッリーポリ城と城壁(il castello e le mura di Gallipoli)

gallipoli castello e mura

ガッリーポリのお城は、イオニア海に浮かぶ旧市街島から海にせり出した、港町ならではの美しい海城です。
半島側から旧市街へと侵入してくる外敵から街と港を守るべく、ガッリーポリ城は半島と島の間の内湾に位置し、唯一の城門は半島と反対の旧市街側に面しています。
青い海と空そして旧市街の家々と調和したその姿は、洋の東西を問わず”お城マニア”にはたまらない珍城、美城でしょう。

正方形にちかい四角形のガッリーポリ城の城郭は、15世紀以降ヨーロッパで主流となったイタリア式城塞の特徴である分厚く背の低い城壁に囲まれています。その四隅のうち三方を円筒状の砦が、そして残る南東の一隅をいびつなほどに巨大な多角形の砦が守っています。城壁の東側から数mほど隔てた海上には、城郭から独立した”リヴェッリーノ(Rivellino = 半月堡)”と呼ばれる大型外塁が設けられており、城の守りをより強固に、そしてガッリーポリ城の外観を個性的なものにしています。

ガッリーポリ城の歴史は、古代ローマ時代この地に築かれた要塞にその起源をみることができ、その後13世紀ビザンティン帝国時代末期に城塞として再建されました。
15世紀のアンジュー朝ナポリ王国時代から大規模な増改築がはじまり、現在の城塞の原型となりました。

それにつづく16世紀のアラゴン朝ナポリ王国時代には、それまで島と陸続きであった城の西側にお濠が掘られた結果、完全に四方を海水に囲まれた形となりました。
1480年のオートラント陥落以来、オスマントルコの南イタリア侵略に苦しめられていた16世紀前半のプーリア州南部のサレント地方。ガッリーポリもその例外でなく、アラゴン朝ナポリ王アルフォンソ2世のもとで1522年には、”リヴェッリーノ”と呼ばれる外塁が新たに追加されたのです。

かつて城への唯一のアクセスとして城門に架かっていた木製のはね橋は、18世紀に石造りの固定橋に架け替えられ、旧市街の島と城が常に繋がった状態になりました。
その後も姿を変えることなく保たれてきたガッリーポリ城でしたが、イタリア王国統一後の19世紀後半には、西側と北側のお濠が埋められた結果、城と島が完全な陸続きとなり、城の正面には、城門を覆う格好で鮮魚市場が建てられました。
リヴェッリーノも、周囲の海が埋め立てられて陸続きとなり、その後20世紀には800人収容可能な野外映画館としてガッリーポリ市民に長いあいだ娯楽の場を提供してきました。

ガッリーポリ城は市が管理所有し長年閉鎖されていましたが、2014年7月から待望の城内一般公開がオープンしました。城内には中世の戦いで実際に使用されたというカタパルト(投石機)や大砲などもあり、この街を見守り続けてきたじだい当時を間近に感じることができます。(入城料 = 5ユーロ)

③ 古代ギリシャ時代の泉(Fontana greca)

gallipoli fontana greca

この高さ5mにもおよぶ立派な石造りの泉は、”現存するイタリア最古の泉”といわれています。もしこの泉が本当に紀元前3世紀のものだとすると、2200〜2300年前のものということになります。
しかしそのせいさく建造年代はいまだに議論の的になっており、紀元前3世紀に作られたという従来の説に対し、16世紀の後期ルネッサンス時代にギリシャ古典芸術を模倣して作られたという比較的新しい説もあります。

しかし実際のところは、この泉を目の当たりにしてみると、基部の石と他の上部分の石とでは、質感が明らかに違うことが素人目にも分かるほどですから、やはり泉の起源は古代ギリシャ時代にまでさかのぼり、その後のルネサンス期に全面的な修復が行われたか、上部を追加したとみるのが妥当でしょう。
16世紀にガッリーポリ市内を2度引っ越したのち、1560年から450年以上、現在の場所にずっと立っています。

この泉は背の高い屏風のようにせせり立っており、外海の方を向いた表面は、古代ギリシャ神話の寓話をモチーフにしたレリーフで飾られています。長い年月、海風に晒され風化してきたその迫力ある姿は、圧倒的な歴史の重みを感じさせてくれます。
男女像柱4体で3つに仕切られた壁面には、左からディルケ(伊:Dirce)、サルマキス(伊:Salmace)、ビュブリス(伊:Biblide)という、それぞれ泉にまつわるエピソードをもったギリシャ神話の人物が描かれています。彼らはみな、古代ローマのオヴィディウスにより紀元前3世紀に書かれた叙事詩で、ラテン文学最高傑作のひとつとして誉れ高い『変身物語(Metamorphoses)』に 登場する人物で、それぞれが泉へと変身する場面が泉の彫刻に描かれているのです(泉に変身?!21世紀の私たちからしてみたらピンと来ない斬新すぎる設定です・笑)。

まず泉の3枚のパネルのうち一番左のモチーフとなったディルケさん、この人は古代ギリシャ・テーバイ王国の王妃でしたが、嫉妬深くかなり残忍な人だったようです。家族内のゴタゴタの末に(ストーリー端折りすぎですね…^^;)、姪のアンティオペを雄牛につないで引きずり殺してしまおうと企みますが、アンティオペの双子の息子たちゼトスとアンピオンによって逆に2頭の気の荒い雄牛につながれ、踏みつけられ息絶えてしまいます。彼女が2頭の牛の間で横たわっているその様子が、左パネル下部に描かれています。生前ディルケは豊穣とワインの神ディオニソス(Dioniso = バッカス Bacco)を信奉していたそうで、彼女を哀れに思った(かどうかは分かりませんが)ディオニソスが、彼女の亡骸から石の泉をつくりました。そのディオニソスの姿が左パネル上部に描かれています。

お次は中央に描かれているサルマキスさん、ギリシャ神話に登場する泉の妖精で、常軌を逸するほどの情熱的(?)なキャラクターとして変身物語に登場します。彼女の棲む泉を通りかかった美少年ヘルマプロディトスにひと目惚れし、あまりに恋い焦がれた彼女は、ヘルマプロディトスといつも一緒にいられるよう、ひとつの身体に合体させてくれと神々に懇願します。古代ギリシャの神様たちは彼の気持ちも聞きもせず、そんな無茶苦茶なお願いをサラッと聞き入れ、サルマキスの願いどおりこの2人の身体を融合して一つの泉へと姿を変えてしまいます。
ガッリーポリの泉の中央パネル下部に、そんな2人の横たわった身体が鎖でつながれ一つになる様子が描かれています。そしてその上の中央上部には、ヘルマプロディトスの母、愛と美の女神アフロディーテ(= ヴィーナス Venere)がその鎖を握りしめた姿で描かれており、彼女の相棒キューピッドの姿も左肩上にあります。いやアフロディーテ母さんもだいぶ複雑な心境だと思いますけどね(苦笑)

そしてもう1人、右パネルに描かれているビュブリスさん。彼女にはカウノスという名の双子の兄弟がいましたが、実の兄弟であるカウノスに恋してしまったビュブリスは、彼にラブレターをしたためるものの、カウノスはこれを思いきり拒絶して遠くへと逃げてしまいます。それを知ったビュブリスは悲しみに気がふれて、カウノスのあとを追う旅へ出るのでした。
やがて彼女は絶望のうちに力尽き息絶えてしまうのですが、いつも嘆き悲しみ最期まで涙を流していたビュブリスを哀れに思った神々の計らいによって、彼女の亡骸は泉にされたというお話。
泉の右パネル上部に描かれているのが逃げるカウノス、そのマントの裾を引っ張っているビュブリスの姿が右パネル下部に描かれています。ちょっと怖いような悲しい絵ですね。

このように古代ギリシャ神話における”三大泉話”を泉のデザインに取りこんでいるあたり、さすがギリシャに所縁深いサレント地方の街ガッリーポリならではといったところではないでしょうか。
いささかマニアックなストーリーで話が長くなってしまいましたが、そんなエピソードを知ったうえであらためてこの泉を目の当たりにすると、また一段と面白みが増すかもしれません。
新旧市街をむすぶチッタベッキア橋の新市街側のたもと、旧市街島を望む絶好の場所にこの泉は立っています。ガッリーポリを訪ねられる際はぜひ立ち寄ってみてくださいね。

④ 聖アガタ大聖堂ほかバロック教会群(Basilica Concattedrale di Sant’Agata)

gallipoli basilica concattedrale

ガッリーポリ旧市街には、「犬も歩けば教会にあたる」とだれか言ったかどうか(?)たくさんの教会が目につきます。それぞれに個性的な外観をもつ教会群の佇まいを眺めながらぶらり街歩きをすれば、同じくバロック建築を代表するサレントの街レッチェとはまたひと味違った海の街ガッリーポリならではの雰囲気を楽しめるでしょう。

レッチェのバロック建築とガッリーポリのバロック建築の決定的な違いは、使われている石の材質にあります。それぞれ地元で産出される、同じ石灰質の石を使っているものの、レッチェ・バロックに使用されているのは粒子がよりきめ細かいレッチェ・ストーン(pietra leccese)で、加工しやすく繊細な彫刻でも壊れにくいのに対し、ガッリーポリのバロック建築に使われるカルパロ石(carparo)と呼ばれる石は、海の近くで産出される粒子が粗い凝灰岩のため、非常に固く加工しづらく、繊細な彫刻には適さないという難点がありました。
そういった点から、レッチェのバロックの優雅さに比べてガッリーポリのバロック建築は多少荒削りの感は否めないかもしれませんが、そんなハンディキャップを克服し名工たちが情熱を注いだガッリーポリのバロック建築も、その苦労を知ればこその味わいがあるでしょう。

ガッリーポリを代表するバロック建築といえば、まよわず聖アガタ大聖堂(la Basilica concattedrale di Sant’Agata)を挙げることができるでしょう。
聖アガタ大聖堂は、旧市街の中心部、緩やかなマウンド状の島のなかで一番小高くなった場所にあります。ローマ時代以降この場所には1500年間ちかく”聖ジョバンニ・クリソストモ教会”という教会がありましたが、レッチェ・バロック建築全盛の17世紀、1629年の着工から約70年かけて1696年に聖アガタ大聖堂は完成しました。

前述のカルパロ石を使って苦労の末に建てられたこのバロック建築の傑作、やはり豪華な彫刻がちりばめられたファサードがもっとも印象的でしょう。
大聖堂のポルターレ(portale = 正面扉)のすぐ上には聖アガタの像、そしてポルターレをはさんだ左の壁龕には聖ファウスト、右の壁龕には聖セバスティアーノの彫像がそれぞれ立っています。聖アガタと聖セバスティアーノはガッリーポリの守護聖人で、とくに聖セバスティアーノについては、ルネッサンス芸術やその流れをくむバロック芸術においてしばしば絵画や彫刻の対象とされており、大聖堂建設当時の中世ヨーロッパで人気を集めていました。
二層になったファサードの上半分は、レッチェ出身のバロック建築の巨匠ジュゼッペ・ズィンバロ(Giuseppe Zimbalo)が手がけたもので、ひときわ豪華絢爛な彫刻デザインが目をひきます。

レッチェの旧市街にあるサンタ・クローチェ大聖堂のファサードもズィンバロの代表作で、レッチェ・バロック建築の最高傑作として大変有名です。同じ作者であるにもかかわらず、やはり石の材質が異なるせいかまったく異なる表情を見せる2つの街の2作品。ぜひご自分の目で見比べてみてください。

中世の権力者や貿易で財をなした資産家からの寄進により建立されました。それら旧市街の教会の多さは、裏を返せば、貿易港として繁栄をきわめたガッリーポリにいかに多くの富が集中していたかの表われといえるでしょう。

教会の多くは不思議と島の外周、海に面した位置に集中しています。はたしてこれは偶然でしょうか?あたかも海を強く意識し、わざと海の見える場所を選んで建てたようにも思われます。
ひとつ興味深いことに中世のガッリーポリでは、それぞれの身分や職業によって所属する教会がきっちり分かれていたそうで、つまり各教会は祈りの場であると同時に、それぞれの職業組合の集会所という社会的に重要な役割も果たしていました。そのためガッリーポリの各教会の内部には、まるで議会のような木製で高い背もたれ付きの立派なイスがずらっと壁ぞいに設置されているのをよく見かけますが、これはプーリア州でもガッリーポリ以外にはあまり見られないとても珍しいスタイルなんですよ。
具体的には、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会(chiesa di Santa Maria degli Angeli)は漁師たちと農民たちの教会、クローチェ・フィッソ教会(chiesa del Crocifisso)はワインやオリーブオイルの輸出に欠かすことのできない樽を作る専門の樽職人、ロサリオ教会(chiesa del Rosario)は服の仕立て職人、カルミネ教会は靴職人、聖ジュゼッペ教会は家具職人、聖フランチェスコ・ディ・アッシジ教会は左官屋、そして聖フランチェスコ・デ・パオラ教会は商人たち、インマコラータ教会は貴族、アニメ教会は医者や弁護士そして地主といったぐあいでした。

旧市街島で唯一の砂浜=プリタ海岸(spiaggia della Purita’)の目の前に立つ、プリタ教会(chiesa della Purita’)は17世紀半ばに建立されました。簡素なファサードに3枚の色彩豊かなマヨルカタイルの絵が目をひくこの教会は、貿易港で活躍した荷積み人夫の教会でした。オリーブオイルなどの貿易で欠かすことのできない肉体労働を提供した彼らは、昼夜を問わず週7日働き続けた結果、富裕層として一時代を築いたそうです。質素な外観からは想像もつかないような豪華な内装に、その栄華の名残りをとどめています。

⑤ ガッリーポリ庶民の伝統家屋と”コルテ”(la corte, il mignano e il parapioggia)

ガッリーポリの旧市街を彩るのは、貴族などお金持ちのお屋敷や宗教建築だけではありません。むしろ代々受継がれてきた生活の知恵を活かした、庶民たちが昔ながらの暮らしをおくる伝統家屋にこそ、この街の最大の魅力があるといえるかもしれません。

ガッリーポリの伝統的な民家の造りのもっとも大きな特徴は、”コルテ(la corte)”と呼ばれる庭にあります。一般的にコルテといえば中庭を指すように、門をくぐった奥にある四方を建物に囲まれた空間が普通ですが、ガッリーポリの民家では逆に、コルテが玄関の前庭として開放されており、それはむしろ軒先の”小広場”と呼んだ方がふさわしいかもしれません。
ガッリーポリ式コルテは、住民同士の交流場所にうってつけであり、仕事の合間の息抜きにコルテで談笑したり、夏の暑い昼下がりにご近所さんと日陰で涼をとりながら世間話に花を咲かせる…といった日常の光景は、今も昔も変わることはありません。
コルテは南イタリアのプーリア州各地に多くみられるものの、いわば”南イタリアの井戸端”ともいえる開放的なガッリーポリ式のコルテはサレント地方のなかでも独特のものなんです。
同じサレント半島でも、内陸部のグレチーア・サレンティーナと呼ばれる地域など他の街でおもに見られる中庭式コルテは、建物に囲まれ門の内側に閉じた、いわばプライバシーを重視した空間。ガッリーポリ式コルテとは明らかに性質が異なっているわけで、どうしてこうなったのか?とても興味深いものがあります。
ガッリーポリのような外に開放されたコルテの造りは、スペインやアラブなど他の地中海沿岸の港町にも共通して見られる特徴だそうです。ヒトやモノの往来が盛んな海の街に暮らしてきた人々の、おおらかで社交的な気質を反映した特徴といえるかもしれません。
ガッリーポリ旧市街には、観光客に人気のコルテ・ガッロ(Corte Gallo)のほか、コルテ・ロッチ(Corte Rocci)、コルテ・サン・ジュゼッペ(Corte San Giuseppe)、コルテ・サンタントニオ(Corte Sant’Antonio)など有名なコルテもたくさんありますから、ぜひ訪ねてみてください♪

もうひとつガッリーポリの伝統家屋の注目すべき特徴は、ミニャーノ(il mignano)です。ミニャーノとは、コルテへと通じるアーチ門の上に設けられたバルコニーあるいは開廊のことで、門の外と内の様子を高い場所から眺めることができるようになっています。同じ家屋でも正門の上に立派なミニャーノがあると無いとではその印象は大違い。豪華なミニャーノがあるだけで、家屋の見栄えが10倍くらいアップする感じがします。
ミニャーノはサレント地方一帯でみることができますが、なんと古代ローマ時代に起源をもつ古い建築で、紀元前4世紀、古代ローマの 中心フォロ・ロマーノにて、歴史上初めて登場しました。共和政ローマの執政官ガイオ・メニオ(Gaio Menio, Gaius Maenius)が、フォロ・ロマーノの元老院議事堂へ傍聴にやって来る聴衆のために設けたギャラリー席がその事始めといわれています。ガイオ・メニオの名にちなんで一般的に”メニアーネ(meniane)”と呼ばれますが、サレント地方ではそれが訛っていつしかミニャーノと呼ばれるようになりました。
最初はシンプルで実用的なバルコニーが門上に設えられているだけであったミニャーノ。表を自由に歩き回ることのなかった中世の女性たちは、そこから外の様子を眺めていたそうですが、後世とくにバロック期にはミニャーノの装飾性が高まり、意匠を凝らした各家のミニャーノは、ステータスシンボルといえる存在にまでなりました。
2000年以上前にローマで始まった建築の伝統が、イタリア半島のかかと、ここプーリア州はサレント地方で今でも息づいているというのは、もう奇跡に近いことかもしれません。

そしてもうひとつガッリーポリの伝統家屋でよく見かけるのが、パラピオッジャ(parapioggia)と呼ばれる、窓のうえに設えられた装飾庇です。貴族のお屋敷に比べて質素な庶民の家屋を比較的手軽に華やかに飾れるテクニックとして広く用いられました。やはりこれもバロック調の豊かな曲線美を活かしたものが多く、なかには窓全体を外に突き出させた出窓スタイルのパラピオッジャなんていう代物もあります。出窓パラピオッジャのある家などはきっと街中の話題を呼び、ご主人もさぞかし自慢だったことでしょうね。
パラピオッジャのおかげでシンプルな外壁もとても表情が豊かなものになり、壁だけでなく街路も含めた空間全体に奥行きを与える、いわば建築の名脇役といえるのではないでしょうか。
ガッリーポリの街角は、どこを切り取っても絵になる光景で溢れています。パラピオッジャが陽光と戯れて白壁に映しだす影は、時間の経過とともにその表情を変化させ、さりげなく味わい深い街の表情づくりに貢献している気がします。
ムニツィオ邸(palazzo Munizio)のパラピオッジャで飾られた外壁をご覧になれば、きっと皆さんも納得されるでしょう。

⑥ オリーブオイル地下搾油所跡(il frantoio ipogeo Granafei)

gallipoli frantoio

グラナフェイ邸(palazzo Granafei)の地下と、グラッソ邸(palazzo Grasso)の地下の一部にまたがる広大な地下空間には、かつて大規模なオリーブオイルの搾油所が2つありました。
もはやこのオリーブオイル地下搾油所は現役として使われていませんが、現在は貴重な施設として見学できるようになっています。かつて数百年にわたりこの街の繁栄を支えた特産品オリーブオイルがいかに作られていたのか?ご興味のある方はぜひ見学なさってみてくださいね。ガッリーポリ旧市街の目抜き通り、アントニエッタ・デ・パーチェ通り(via A. De Pace)沿いに出入口があります。(2014年9月現在、入場料=1.50ユーロ)

⑦ イオニア海に沈む夕陽

gallipoli tramonto

風光明媚なサレント地方のなかでも屈指の絵になる景色です。心に安らぎと感動を
与えてくれる夕陽。きっと皆さんも、この夕陽を瞼の裏に焼きつけ旅の思い出としてそっと大事にもって帰りたくなることでしょう。

旧市街から西の沖合い約2kmにサンタンドレア島(l’isola Sant’Andrea)があります。
旧市街のチッタ・ヴェッキア島よりひとまわり大きいこの無人島は、希少種のカモメにとって格好のコロニーとなっています。

旧市街の西側の海沿いならばほとんど全ての位置から、すばらしいこの夕陽を楽しむことができますが、独断と偏見でとっておきの絶景ポイントをご紹介しますと、数多い教会群のなかでも独特な色使いで、ファサード上部の壁龕に収められた木製の十字架が目をひく聖十字教会(Chiesa del Santissimo Crocifisso)の周辺がオススメです!
もちろん季節によって太陽の沈む位置が変わりますが、ここからはサンタンドレア島をほぼ正面にとらえつつ、その背景の夕陽を楽しむことができるでしょう。

もうひとつ、そこから数百m北にいった旧市街唯一の砂浜 = スピアッジャ・デッラ・プリタ(spiaggia della Purita’)あたりもオススメです。ここからは美しい弧を描くプリタ海岸と夕陽に輝く海を正面に、さらに視界の左には旧市街の街並みとその沖合いにサンタンドレア島もとらえることができます。

も絶妙なポジションで景色に華を添え、旧市街から西の海を眺めれば、サンタンドレア島に高くそびえる真っ白な灯台。その灯台のまわりを無数のカモメたちが無邪気に舞う…あたりをとりまく海面は一面夕陽で黄金色に輝き、刻一刻とその色を変えながら、やがてすべてを真っ赤に染めた太陽がしずかに水平線のむこうに沈んでいく…
そんな光景を眺めていると、この街を『美しい街』と名づけた古代ギリシャ人の気持ちが、悠久の時を超えて伝わってくるような心持ちにさせられます。

⑧ ガッリーポリの漁港と場外魚市場(il porto Peschereccio e il mercato ittico)

gallipoli scapece

ペスケレッチョ(il porto Peschereccio)と呼ばれるガッリーポリの漁港は、この街の歴史そのものと言っても過言ではないでしょう。街の繁栄の源であり、つねに人々の生活の中心にあって悠久の歴史を紡いできた場所です。
ガッリーポリには現在2つの港があり、19世紀後半に建設された長い埠頭をもつ新港は、コンテナ船や海軍の艦船など大型船舶が利用している一方、3千年の歴史を刻む旧港は現在、おもに近海漁業の小型漁船が停泊する漁港として利用されています。
その旧港の岸壁で、漁師たちが漁網を繕ったり仕掛けのカゴを準備する姿は、今も昔も変わることのない日々の光景です。
毎日午後の早い時間に旧市街の対岸、古代ギリシャの泉の先にある埠頭に獲れたばかりの魚が水揚げされると、マルタ広場(piazza Malta)に即席の魚市場ができあがり、その活況ぶりは大変なもので、魚が飛ぶように売れていくさまは圧巻です。

もう少しじっくりとご覧になりたい方には場外市場がオススメです。新鮮な魚介類が種類豊富に売られています。なかにはそれらのシーフードをその場で生で食べさせてくれるスタンドもありますよ♪貝の生食とは、さすが海の街ガッリーポリならではといったところでしょう。

ガッリーポリの伝統料理には、当然ながらシーフードを扱ったものが多いです。小魚を油で揚げて酢漬けにした”ガッリーポリ風スカペーチェ(scapece gallipolina)”は、南イタリア式の南蛮漬け。酸味の効いた小魚を骨まで丸ごと食べられて、やみつきになる味です。魚を漬けこむお酢はサフランとパン粉と和えた粗いペースト状になっており、そのあざやかな黄色が特徴的で、サレント地方ではお祭りに欠かせないおめでたい一品として人気があります。一般的にそのままつまんで食べることが多いですが、サンドイッチにはさんでも、絶妙な酸味のアクセントとなり美味しいです。

もう一品、ガッリーポリ産の甘エビを小さく刻んで小麦粉を溶いた生地にぜいたくにまぜ合わせて揚げた一口サイズのフライ”ピットゥレ(pittule)”は、軽いおつまみやスナック感覚でサレント地方で広く食されている伝統料理です。ガッリーポリでは伝統的に、毎年12月13日の聖ルチアの日に各家庭で食されています。
ナポリなど南伊の他地方にも”ゼッポレ(zeppole)”と呼ばれる、このピットゥレによく似たフライ料理がありますが、地元特産の甘エビを使うのはガッリーポリならではでしょう。 控えめな塩気にエビのほのかな甘さと香りが口に広がる…ふわふわアツアツで頂くのがたまりません。

⑨ プロヴェンツァーノ薬局(Antica Farmacia G. Provenzano)

gallipoli farmacia provenzano

ガッリーポリ旧市街の中心部を東西に貫く目抜き通り、アントニエッタ・デ・パーチェ通り(via Antonietta de Pace)。
その道筋のちょうど中ほどに聖アガタ大聖堂があり、そのすぐ向かいにはガッリーポリを代表する貴族の邸宅建築 = ピレッリ邸(Palazzo Pirelli)が立っています。このあたりの石畳の空間は、ガッリーポリ旧市街の中でもとくに、長い歳月を刻んできた街の営みを強く感じさせる雰囲気に満ちています。

プロヴェンツァーノ薬局は、大聖堂よりも古い16世紀に建てられたピレッリ邸の一角を占め、みごとにこの歴史的建物に溶けこんで店(たな)を構えています。薬局の占める一角は、かつてピレッリ邸の正面玄関があった部分で、店内のアーチ型天井に描かれているフレスコの装飾が、まだ貴族の邸宅だった頃の名残りを感じさせます。

プロヴェンツァーノ薬局がこの地で創業したのは、なんと1814年!200年にわたりこの地で営業を続けてきたわけです。イタリア全国に現存する最古の薬局の一つに数えられるこの薬局は、創業以来ずっと地元ガッリーポリ出身のプロヴェンツァーノさん一家により代々受継がれてきました。
店内のガラス棚には、かるく100年は超えるであろう年代物の色彩豊かな医薬保存用の陶器ボトルが整然と並べられており、その芸術的な空間に身を置けば、まるでタイムスリップしたかのような錯覚を覚えるかもしれません。

現在のプロヴェンツァーノ薬局のご当主は、アガタ・プロヴェンツァーノ女医とおっしゃり、息子のジョバンニさんとシッシさんとともに毎日お店のカウンターでお客さんの相談に耳を傾けていらっしゃいます。
さすが老舗薬局といったところでしょうか、アガタさんはじめ、たいへん気品の感じられるプロヴェンツァーノ家の皆さんは、とても気さくに穏やかにお客さんを迎えてくれます。
健康相談でお客さんに親身になるがゆえに、一人ひとりの体質などを考慮した結果、薬の服用をすすめずに自然治癒力の向上をアドバイスして家に帰らせるなんてこともしばしば。古くから馴染みのお客さんから一見さんまで、絶大な信頼と評判を博しているプロヴェンツァーノ薬局。観光スポットとしては番外編といえるかもしれませんが、古き良き南イタリアの伝統を感じさせ、なんだか温かい気持ちにさせてくれる、そんな場所です。

 

 

名の由来   郊外