なんといっても旧市街のバロック建築群は必見です。数百年の歴史を誇るバロック建築にはさまれた石畳の路地を歩けば、まるで異次元ワープかタイムスリップしたかのような錯覚におそわれることでしょう。

サントロンツォ広場(Piazza Sant’Oronzo、聖オロンツォ広場)

レッチェ旧市街の中心にあるのがレッチェっ子たちの憩いの場、サントロンツォ広場です。広々として年季の入った石畳が美しい広場の舗床には、樫の木とオオカミをあしらったレッチェ市の由緒ある市章が大きくモザイクで描かれています。基本的にこの一帯は(ほぼ)歩行者天国になっていますので安心して散策を楽しめるでしょう。

サントロンツォ広場には、ひと際高くそびえる円柱があります。『聖オロンツォの円柱(Colonna di Sant’Oronzo)』と呼ばれる高さ30メートルのこの碑柱の上には、レッチェの守護聖人=聖オロンツォ(Sant’Oronzo)の像があり、レッチェの旧市街を見守っています。この碑柱はもともとブリンディシ(Brindisi)の港にあったもので、『すべての道はローマに通ず』でおなじみ古代ローマの大動脈アッピア街道(Via Appia)の東の終着点を示すものとして、彼の地に今日も建つもうひとつの石柱と対をなしていました。紀元前2世紀半ばにブリンディシ港に建てられたこの碑柱は、のちの17世紀半ばにヨーロッパでペストが大流行した際に、奇跡的にサレント地方では感染者をほとんど出さなかったため、ブリンディシ市民の多くの命がレッチェの聖オロンツォのご加護で救われたとし、その感謝のしるしとしてブリンディシ市からレッチェ市に贈られたもので、この場所へと運ばれてから300年以上が経っています。

聖オロンツォの円柱のすぐかたわらには、箱形をした石造の建物が目をひきます。これは『セディーレ(il Sedile)』と呼ばれ、何度か建て直されていますが現在のものは、15世紀に地中海貿易で活躍しレッチェの街にベネツィア人街を形成したベネチア商人たちによって建てられたものです。
中世から近世にかけて市庁舎や公開討論場として使われていました。建物の四面に設けられた尖頭アーチの開口部はたいへん大きく、当時はガラス窓もはめられていなかったため、市民の誰しもがその働きぶりを聞いたり覗くことができました。中世レッチェ市政の情報公開水準の高さがうかがわれます。
16世紀末にベネチア(Venezia)出身のレッチェ市長ピエトロ・モチェニーゴ(Pietro Mocenigo)の指示により建て直された現存するセディーレは、ゴシックとルネッサンスの様式が組合わされたとてもユニークなものです。セディーレの四隅に立つ4本の柱は、レッチェ・ゴシック建築を代表するサンタクローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)のそれに共通点が多いことから、おそらくこのセディーレもサンタクローチェ聖堂のデザインに参加した当時のゴシック建築の巨匠ガブリエーレ・リッカルディ(Gabriele Riccardi)による設計だろうといわれています。
セディーレに隣接している小さな教会は『サン・マルコ教会(Chiesetta di San Marco)』といい、16世紀なかばにレッチェに進出してきていたベネチア商人らによって建てられました。当時の地中海世界を支配していたヨーロッパ随一の都市国家ベネチアにとってレッチェは、アドリア海貿易の拠点として重要な友好都市であり、事実サントロンツォ広場もかつては『Piazza di Mercanti(商人の広場)』と呼ばれ、ベネチア商人のレッチェにおける活動拠点となっていました。
この小さな教会の入り口上部には、ヴェネツィアのシンボルである「翼のあるライオン」のレリーフが石で彫られているほか、教会の名“サン・マルコ”こそヴェネツィアの守護聖人に由来するものであり、彼の地ヴェネツィアの中心にもサン・マルコ大聖堂(Basilica di San Marco)とサンマルコ広場(Piazza San Marco)があることからも、かつての2つの都市の密接な関係をうかがい知ることができます。さしずめ「総合商社ヴェネツィア商事・レッチェ支社」といったところだったのではないでしょうか?

 

② ローマ時代の円形闘技場(Anfiteatro Romano)

サントロンツォ広場のすぐ隣にひと際広大なスペースを占めているのが、2世紀に建てられたローマ時代の円形闘技場です。現在ではその一部が地上に姿を現しているのみで、その半分以上が隣接する建物や道路の下に眠ったままですが、今日もコンサートなどさまざまな催し物に利用されているとは驚きです。建造当時、観客25000人という大収容力を誇ったという闘技場を眼前にすると、大ヒットしたハリウッド映画「グラディエーター」さながらの、いにしえのローマ帝国の繁栄の息吹がよみがえってくるかのように感じられます。

 

③ 古代ローマの劇場(Teatro Romano)

2000年前に建てられたこの野外劇場は、1929年当地にある庭園の地中から偶然に発見されました。正確な建造年代は明らかになっていないもののさまざまな文献資料より、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの治世に建てられ、その後1世紀から2世紀にかけてのローマ五賢帝の治世、いわゆる「パックス・ロマーナ」と呼ばれるローマ帝国最大の繁栄期に改築されたと推定されています。収容人数5000人以上を誇ったこの劇場で、2000年以上も前から夜な夜なギリシャ悲劇や喜劇の大作が上演されレッチェの街の人々を魅了していたなんて、その文化水準にはただただ驚かされるばかりです。きっと有名な劇作家や多くの人気役者たちなどが活躍したことでしょうね。

 

④ ドゥオーモ広場(Piazza del Duomo)

旧市街の中心サントロンツォ広場とレッチェ三大門のひとつルディエ門(Porta Rudiae)をむすび、地元レッチェっ子たちにも人気の散策ルートとなっているジュゼッペ・リベルティーニ通り(Via Giuseppe Libertini)の石畳を歩いていると、厳かな雰囲気に包まれたドゥオーモ広場が姿をあらわします。12世紀半ばこの地に最初の大聖堂が建てられ、17世紀のバロック最盛期にほぼ現在の形ができあがりました。
このレッチェのドゥオーモ広場は、四方を建物にとり囲まれ広大な中庭を形成しているという、イタリア国内でもかなり珍しいつくりをしています。かつては夜間、四面に設けられた出入り口の鉄柵にカギがかけられていました。

ドゥオーモ広場に入るとまず正面に、大聖堂(ドゥオーモあるいはカテドラーレ)の立派なファサードが目にとびこんできます。このドゥオーモはレッチェ・バロック様式の代表作のひとつに挙げられ、1670年にバロック建築の巨匠ジュゼッペ・ズィンバロ(Giuseppe Zimbalo)の手により20年の歳月をかけて完成しました。しかしこのファサード、じつはニセモノ(!)の“かざりファサード”で、ご丁寧にしつらえられた出入り口のドアも“お飾り”、正真正銘ホンモノの出入り口とファサードは、右側面にあるのです。その右側面— というよりむしろこちらが正面— に回ってみますと、ホンモノの正面は“かざりファサード”と比べてあっけないほどシンプルな造りで、飾りたてられたファサードを横からみた姿は滑稽に思われるほどかもしれません。
しかしこれは現在のかたちのドゥオーモが完成した17世紀当時としては、ドゥオーモへの参拝者らへの視覚効果や全体の建築予算などの諸々を計算して大まじめに設計されたものだったことでしょう。

ドゥオーモ広場の正面に向かって左手には、鐘楼(カンパニーレ, campanile)が高くそびえ立っています。この5階建ての鐘楼は高さ70mに達し、当時としては超高層建築、サレント地方随一の高さを誇り、塔のうえからは約12km先のアドリア海を、さらには晴れて空気の澄んだ日には、その対岸アルバニアの山々まで見渡すことができたそうです(残念ながら、観光客の入場はできませんが…)。
広場の正面一番奥まったところ、ドゥオーモの右隣には、レッチェの大司教の邸宅(Episcopio)が、そして広場の右手、鐘楼のむかい側には神学校(Seminario)が威厳ある構えをみせています。この神学校は、ジュゼッペ・ズィンバロの愛弟子であるジュゼッペ・チーノ(Giuseppe Cino)が手がけたもので1694年に完成、その中庭にある井戸の美しさはとりわけ有名です。(入場見学できるのかどうか?)
このように四方を荘厳な宗教建築に囲まれたドゥオーモ広場は、開放的なサントロンツォ広場とは対照的に、いかにも神聖な空間といった凛とした佇まいをみせています。

 

⑤ サンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)をはじめとする教会建築群

サンタ・クローチェ聖堂はしばしば、レッチェ・バロック建築を代表する最高傑作に挙げられます。華やかで躍動感のある彫刻が所せましと飾られたファサードや、細やかな彫刻のあしらわれた大きなローズ窓が荘厳華麗さを見事に演出し、その圧倒的な存在感がこの聖堂を唯一無二の存在たらしめています。

1353年にこの地に修道院が建てられたのち 、16世紀半ばからなんと150年近い歳月を費やし、当時きっての名工たちによりその建造事業が受け継がれながら1695年にサンタクローチェ聖堂は完成しました。
16〜17世紀といえばまさにバロック建築の最盛期、ガブリエーレ・リッカルディ(Gabriele Riccardi)にはじまり、フランチェスコアントーニオ・ズィンバロ(Francesco Antonio Zimbalo)やチェーザレ・ペンナ(Cesare Penna)そしてジュゼッペ・ズィンバロ(Giuseppe Zimbalo)といったバロックの巨匠たちによる芸術的建築を、当時のままの姿で鑑賞することができます。
サンタクローチェ聖堂の彫刻のなかには、建築期間中にギリシャで起こったレパントの海戦(1571年)において、カトリック教国の連合海軍がオスマントルコ海軍に勝利したのを記念し、そのときのイスラム教徒捕虜の姿もみられます。重いファサードを背中に担がされ、苦しそうにみえるのも無理ないことでしょう。
それと並んで空想や伝説上の動物などの勇壮な姿もみられますが、これらはレパントの海戦に勝利したカトリック諸勢力を表しているといいます。
たとえばドラゴンは、グレゴリウス暦で知られる当時のローマ教皇グレゴリウス13世を輩出したボローニャ(Bologna)の名門ブオンコンパーニ家(Buoncompagni)を、鷲の翼をもつ獅子はヴェネツィア共和国、そしてグリフィンはジェノヴァ共和国、ギリシャ神話に登場する怪力のヘラクレスはトスカーナ大公国を、といったぐあいです。いずれも今にも動き出すかのような迫力です。

サンタ・クローチェ聖堂のほかにも、サンタ・イレーネ教会(Chiesa di Santa Irene)、サンタ・キアーラ教会(Chiesa di Santa Chiara)、サン・マッテオ教会(Chiesa di San Matteo)、サンタマリア・デイ・アンジェリ教会(Chiesa di Santa Maria degli Angeli)など、レッチェの旧市街には多くの優れたバロック建築の教会群があり、この街を華やかに飾り、訪れる人の目を存分に楽しませてくれています。

 

⑥ レッチェの三城門

かつてレッチェの街は城塞都市として四方を高い城壁で囲まれており、街への出入りは3つの城門からにかぎられていました。それらの門は現在でも、旧市街に徒歩でアクセスするメインの門として、堂々とした姿で人々の往来を見守っています。

まず旧市街の西に構えているのが、ルディエ門(Porta Rudiae)。3つの城門のなかで最も古くからこの場所に門があったと言い伝えられています。正確な建造年は不明なものの、まだレッチェの街ができる前からあった、レッチェの前身といえる古代の街“ルディエ(Rudiae)”をその名に持つとおり、レッチェの街ができた当初からあったという見方が有力です。
現在のバロック様式のルディエ門は1703年に、それまでの門が消失してしまったあとジュゼッペ・チーノ(Giuseppe Cino)が新たに建てなおしたものです。レッチェの街の誕生にまつわる神話や伝説の登場人物の彫像が門をかざっています。
旧市街の南東に構えているのはサン・ビアージョ門(Porta San Biagio)で、ルディエ門とおなじくらい古くからこの場所に門がありましたが、現在の門は1774年に建てられました。現存する3つの城門のなかでは一番新しく、すっきりと簡素な飾りに見えるかもしれません。すでにバロック建築の熱がだいぶ冷めた時代に建てられたことがうかがわれます。高さ17.3mで、3世後半〜4世紀初に黒海沿岸のアルメニアで活躍したキリスト教の聖人の名を冠しています。

旧市街の北西にかまえているのが、ナポリ門(Porta Napoli)です。現存する3つの門のなかでもっとも古い(1548年建造)ものの、高さ20mと最も大きく威風堂々とした構えをみせています。神聖ローマ皇帝兼ナポリ王であった名君カール5世(Carlo V)の治世下、レッチェの街の防衛機能を高めるべく城壁がより高く堅牢な要塞化された際に、王の偉業を称えてレッチェ市民により建てられたもので、別名『凱旋門(Arco di Trionfo)』といいます。
カール5世を讃える麗句とともに、門の上部には、カール5世の出身であるハプスブルグ家そして神聖ローマ帝国の紋章=双頭の鷲の彫刻が大きく刻まれています。

 

⑦ レッチェ貴族の3大バロック宮殿

レッチェ・バロック建築は、教会など宗教建築にかぎられたものではありません。当時の貴族たちや豪商の一家さらには公的庁舎なども、次から次へと権勢を誇るかのようにバロック様式で華やかに飾られていきました。
ドゥオーモ広場を背にして道なりにまっすぐ進むとナポリ門へ、左に進むとルーディエ門へと至りますが、その途中にはスパーダ邸(Palazzo Spada)、マレーセ邸(Palazzo Marrese)、パルミエーリ邸(Palazzo Palmieri)といったレッチェ・バロック建築を代表するかつての貴族の邸宅もあり、一見の価値があるでしょう。
マレーセ邸は18世紀半ば当時のバロック建築の第一人者マウロ・マニエーリ(Mauro Manieri)が手がけました。バロック様式後期を代表するユニークなスタイルの4本の柱を備えたファサードが異彩を放っています。
パルミエーリ邸は16世紀に建てられたのち、17〜18世紀にかけて増改築がおこなわれました。18世紀に活躍した『ナポリ啓蒙派』を代表する経済学者ジュゼッペ・パルミエーリ(Giuseppe Palmieri)の生家といわれています。現在この邸宅は一部が私有、一部がレッチェ市の所有となっており、その庭は公園の一部として入園可能ですのでぜひ訪れてみてくださいね。
ドゥオーモ広場からほど近いスパーダ邸がいつ建てられたのかは不明ですが、19世紀後半にロッロ家当主オロンツォ(Oronzo Rollo)からスパーダ家へと所有が移ったもので、“スパーダ = 剣”という名のとおり、双頭の鷲が2本の剣を交差して構えているスパーダ家の紋章が門のうえにかざられており、鷲の羽毛かサボテンの葉をかたどったような模様が鱗状に並べられ柱全体を覆っている個性的なファサードだけでも一見の価値がありますが、現在はなんと貸別荘としてこの貴族の元邸宅に滞在することもできるそうです。

 

⑧ カルロ5世城

かつて街全体が城壁に囲まれていた城郭都市レッチェ。南北西の3方角には3大城門が配されているわけですが、ではいったい街の東側はどうなっているのでしょうか?
レッチェの旧市街の東側には城門のかわりに、とりわけ強固な城壁に守られたお城があります。もともと同地には古くから小規模な砦がありましたが、それを刷新してジャンジャコモ・デッラカイヤ(Gian Giacomo dell’Acaja)の設計により1549年に10年かけて新しい城が築かれました。
『カルロ5世城(Castello di Carlo V)』と呼ばれています。城の名に王様の名前を冠しているというのは古今東西を見渡しても、ちょっと珍しいケースといえるかもしれません。
サレント半島は15世紀後半から再三イスラム勢力の侵略に悩まされており(くわしくは『オートラント』をご覧ください)、この外敵がレッチェの街の東方にあるアドリア海側から攻めてくるということで、それに備えるために街の一番東側にお城が築いたということですね、なるほど〜!

当時のヨーロッパ一の実力者=神聖ローマ皇帝兼ナポリ国王であったカルロ5世の号令のもと築かれたカルロ5世城は、この時代アラゴン朝ナポリ王国により築かれた多くの城に共通する特徴がみられます。すなわち、城壁がたいへん分厚い一方で壁や建物の高さは従来の城よりも低い設計となっています。また、いびつな台形の城壁の四隅にはそれぞれ、さらに堅牢な砦が大きく突き出しています。
なぜこのような設計になったのか?この時代ヨーロッパでもようやく、戦争で使われる飛び道具の主役が弓矢や投石機から火薬を利用した大砲へと変わったために、従来の城の防御力を大幅に高める必要性にせまられて考案されたわけです。まさに築城の革命といえるでしょう。
かつて城のまわりはお濠で囲われていましたが、19世紀にすべて埋め立てられてしまいました。そのお濠では「ステータスシンボル」として、また侵入者の度肝を抜く目的でなんと“白熊”が飼われていた?!なんていう伝説が残っています。

カルロ5世城からアドリア海にむかい真っすぐ最短距離でのびるローマ時代からの幹線道路を約10kmいくと、レッチェの最寄りの港 = サン・カタルド港(Porto di San Cataldo)にたどりつきます。このことからも、カルロ5世城がレッチェの街の防衛にとっても重要な位置にあったことがうかがい知れます。

余談ですが、旧市街の地下にはイドゥーメ(Idume)と呼ばれる川が流れており、カルロ5世城の真下を通りアドリア海へと流れこんでいます。古代からレッチェの人々にとって貴重な水源のひとつとして利用されてきたこの天然の地下水脈のおかげで、芸術の街レッチェの歴史が育まれ、守られてきたといえるかもしれません。

 

 

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